<本能寺の変>直前の新資料…「四国攻め反対」が動機?
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が
自害した「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が
関わっていた可能性を示す手紙が見つかったと発表した。
四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を伝える書状。光秀は重臣が
長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国討伐から元親を
守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。
(中略)
また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部か
ら撤退した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に
対して態度を軟化させたことを示していた。元親が信長に「従う」と示した史料が見つか
ったのは初めてという。
ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたこと
が既に分かっている。本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に
納得していなかったのが原因の一つという「四国説」がある。
内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を軟化させた元親をはじめ、重臣の利三ら
と婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国討伐を止めようとしたのでは」と
話している。見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される。
◇本能寺の変◇
1582(天正10)年6月2日、織田信長が備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようと
京都の本能寺に宿泊した時、明智光秀が信長を襲って自刃させた事変。光秀の動機は
「怨恨(えんこん)説」や「野望説」など複数あり、明らかになっていない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000118-mai-soc... 毎日新聞 6月23日(月)23時33分配信
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